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tyo-go-ri

「チョゴリ」。
唐突だがこの「言葉」を21世紀建築のテーマの一つとして大事にしたい。
一般的には韓国の礼服である、チマチョゴリを思い浮かべるだろう。
実はこれ、駄じゃれに絡めた造語である。

思い返せば早いもので、もう30年程前にもなってしまうが、一年間ほど韓国のソウルにいた。ソウル市内中心部にある一大プロジェクト、ロッテホテル及びロッテデパート建設に絡んでである。デパート部及びコネクション部が大阪の設計事務所の設計監理であり、4人のチームで常駐していたのだが、その中に私一人だけ外人部隊で参加していた。当時のソウルもそこそこ大きかったが、今のソウルからすればはるかに小さい都市ボリュームであった。地下鉄もかろうじて1本だけだったし、韓南側はまだまだ開発以前であった。ただひたすらパルパル(1988年のオリンピック)へ向けての空前の都市改造の真っ只中の時期であった。ここでは二つの手本があった。日本とアメリカである。法規等の実務的なプログラムは10年前の日本版がベースになっていた。しかし建築家制度はアメリカ式であった。設計は建築、構造、設備の、いわば三権分立である。日本での基本設計(ほとんど実施に近いものだったが)を元にそれぞれが独立して実施契約をするのである。これは責任の分担とともに、責任のありかをはっきりさせるという合理的な一つの方法である。

しかし、日本では、ゼネコンに代表されるように工務店の設計施工がまかり通る矛盾が合法とされているために、設計という仕事の「ホントの意味での重要性の認知度」がいまだ低いのである。それゆえ設計料、いわゆるソフト料がいわばサービス的なニュアンスを与えているのである。そんな中、西洋(欧米か!)スタイルを採るということは、現行設計システムを一気に2段階飛び越えることになり、急激ななソフト料のアップが見越され、果たして今の日本社会が受け入れるかどうか?。アネハ事件以降クローズアップされている「チェックシステム」問題が姦しいが、それは目先の問題であり、大きな村社会(談合)国家ゆえの明暗をかかえているこの設計制度システムこそ、わが国の残されている大問題の一つであり、ここをクリアーにすることを、今こそ真剣に考えなくてはならないのではないだろうか。それともこれは、日本独特の「超合理」という皮肉なシステムとして生き続けるのだろうか。それはどこまでもハードな問題である・・・・。

前置きが長くなった、すなわちチョゴリ、超ー合ー理である。超合理、合理主義を超えた建築である。
グローバルデザイン、「モダニズム」が世界中に浸透した20世紀は大変な100年だった。しかしそれを受けてこの21世紀は何をテーマにするのか?。近代主義ー合理主義ー機械主義ー資本主義ー共産主義。これら20世紀に共通する無機的なイメージからの脱却が問われるのだろう。いわば人間主義、ネオルネッサンスとでも言おうか、「有機栽培」ならぬ「有機建築」とも言えるのか、これはこれで、は大きな課題として魅力があろう。そこでチョゴリだが、前述のソウルにいた時たくさん目にした時から思っていたのだが、あの素材共々、デザイン的なふんわりとした柔らかさとナイーブさはすばらしい。日本の着物以上に体の線を神秘で包む真髄はいかにも「東洋的神秘」に満ちている。それでいて充分エロティックでもあるから、普遍性も備えているのだろう。西洋的なモダニズム建築を超えた、こうした真髄のある人間建築「チョゴリ」を是非とも作ってみたいものである。