個別表示

新年あけましておめでとうございます

アップロードファイル 213KB

新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

2015はいろいろな意味で節目の年になります。戦後70年ということが大きいと思いますが、阪神淡路大震災からも20年になります。あっという間ですね、「関ボラ」が思い出されます、まさに光陰矢のごとしです。阪神淡路は直下型地震、東北は地震と津波、状況は違えど自然の猛威をいまさらながら感じさせられました。

しかし自然との闘いはいずれ癒しが訪れますがそれは相手が自然だからで、人間の場合はそうは行きません。戦後70年も経つのにいまだに、いやこれからもっと100年、200年先までも人間の怨念は生き続けるでしょう。ユダヤ、パレスチナ問題を見るともっともっと、2000年以上の怨念が人々を突き動かしていることがわかります。逆に言うとこの怨念、或いは執念によって人は生き続けられるとも言えるでしょう。

建築も人間の執念が作り出したものです。有名なサグラダファミリアは、まさにガウディの執念が乗り移った建築として、彼の死後90年も経つのにいまだに人々が作り続けています。日本の寺社建築も敗者の怨念鎮魂のために多く建てられました。古くはギリシャ、ローマ、いやエジプトからすると5000年6000年もの間ずっと人間は執念のように建築を作り続けています。なぜでしょう?

無から作り出す空間は希望に満ちていますが、見方を変えると足りないものを作っているのです。足りないものがほしいものになります。よく言う「無いものねだり」です。この無いものねだりが人間の執念として有史以来営々と物を作り出しています。ネイチャリスト、エコロジストからするともう建築はいらないのでしょうが、唯一高度な脳を持つ生き物である証として、人間に煩悩がある限り作り続けるでしょう。何しろ永遠に人間は満足し続けることは無いだろうから・・・。

よく考えたら私も執念のように定点観測を続けています。以前ここのブログにも少し書きましたが(過去日記参照)それは最寄の主要駅から田舎までのバスでの正月の帰省です。これをもう40年以上毎年欠かさず続けています。車社会の昨今ほとんどの人がバスに乗りません。毎年じっと一人(乗客がいない)暗い車窓から少しづつ変わり行く景色を眺めています。今でこそよく言えば定点観測?ですが勿論始からそうではありません。足りない何かが埋められるわけでもないのに、ただ執念のようにバスに座り続けています。唯一つの目的はそのころから一人で暮らす母親に顔を見せるためだけなのだが、「儲かったで」とか「帰ってくるで(一応長男)」とかでもなく、ただただいまと力なく引き戸を開ける・・・。

幼少年期を過ごした田舎、そこは近代主義の敗者であり、勝者である都市への帰属と憧れ。グローバリズム全盛(いまだに?)期までは明らかに勝者である都市は輝いていた。しかし今、養老孟司的に言う「都市主義の崩壊」を迎えている。ここでようやくかつての敗者である田舎がクローズアップ、再評価されようとしている。勿論老後をのんびりと田舎暮らしで、というようなノー天気は論外として、ロジックで言うと勝者が敗者に手を差し伸べようとしている。ウインウインでいきましょう。果たしてそんなにうまくいくはずもない。日本人的なみんなで仲良くはゲームではありえない。いや現実社会はそんな軽々しいゲームではない。しかしほんとにゲームではないのか、ゲームではない本物とは何を持って言うのか。

言えることは敗者であった田舎が、もはや単なる敗者ではなく対極の勝者になるかもしれない、勝者にしなくてはならない、という危うさを戦後70年かけて国が作ってきたということである。闇雲なポピュリズムがカッポする現代、また、憲法改正にのみ執念を燃やすリーダー。この国はどこへ行こうとしているのか。

田舎と都市の定点観測はいつまでも続けて行きたい。
また執念で「建築」を作って行きたい。

新田