老人力

「今日はいかないん?」、「ああ一仕事終わったら後から行くよ」。道端で出会った近所仲間が交わす日常の何気ない会話である。日当たりのいい日には、このほのぼの?した会話は今でも田舎なら聞こえて来そうである。村はずれの集会所にあるゲートボール場へ行く途中の場面である。なんとものどかな風景であり、みんな楽しそうに見える(見えた)のがうれしい。これは、子供の頃の記憶にある良き時代の田舎の風景である。いわゆるひと昔、いやふた昔前までは、年寄りから子供までいろんな世代の人々が一緒に、あるいは同じ空間で生きていた。

翻って現代、巷ではワンルーム老人専用マンションが流行っているが、そこに展開されているのは、利殖追及が命題であり、決して豊かな空間になっているとはいえないだろう。言葉は悪いが一種の詰め込みであろう。
片や、昔(1980年代だと思うが)「ライフイン京都」という若林さんの傑作があった。なんとも豪華なイメージを思い出すが、今にして思えばその後の豪華「老人ホーム系」のさきがけのような建築だった、前述のマンションとまったく違うのはめくるめく豪華さだ。それは現代ではホテルのロビーのような瀟洒な空間、としたイメージに移り変わってきているが、少なくとも老人のための施設には見えない。

この両極端な建築を必要とする社会を高度に発達した21世紀のわれわれは作ってしまったのである。

21世紀的合理社会では、どうしても社会の中のバランスが極端に崩れているとしか思えない。勿論単純に人口分布が崩れて来ていることも一因だが、根本は、いい意味のヒエラルキーの欠如が主な原因であろう。結果現代は、極端に世代混在のなくなっている社会なのである。いきおい、老人自体も自信と活力を失い、延命された寿命をもてあまし、抜け殻のような余生を送るだけになる。どうも発想が貧困なのか、僕にはそういうイメージしかわいてこない。これでいいのだろうか・・・。

老人はいい意味での「怪人」になるべきではないだろうか。怪人になって世の中を闊歩すればよい。勿論どうしようもない頑固老人は願い下げだが、若い社会からお払い箱のような生き方を受忍して欲しくない。せっかくの生命力を生き生きと生かして欲しい。

今年100歳だという「オスカーニーマイヤー」(ブラジル)が新作を作ったのだと言う。その建築がまたカッコいいときている。これはすごいなと言う感じのものである。村野さんの現役94歳をはるかに越えている、脅威のエネルギーである。この老人力いうか怪人ぶりは、少なくとも世の老人たちにに元気を与えてくれるのではないか。