ユートピア 続

禅問答のようだが、ではなぜユートピアを求めるのかと問われたら、何処にもないからだと答える。これは幾多の権力者たちが、不老不死の食物を求めて家臣たちをそれこそ地の果てまで探しに行かせた話に通じるものがある。かつては、地の果てである「ジパング」もその格好の対象として、かの秦の始皇帝の命を受けた除福も熊野灘に上陸したという。何処にもない不老不死の薬草探しに躍起なるのは、無限の可能性に満ちていた近世までの世界観ならまだしも、世界が有限で資源の保有能力までわかってしまった現代ではさすがに信じる人はいないが、かろうじて金やダイヤモンドのような黄金探しの夢が続いているぐらいである。しかしここが人間である、そうとわかっていてもどこかでそれを探し求めているのだ、夢・・。

ここで肝心な建築史上でのユートピアを見てみよう。建築の世界では、前述からのユートピア観とは少し違うが、もう一つのユートピア的至福である天へのあこがれがある。ヨーロッパのゴシック建築はまさに宗教的天への憧れであり、それを始めとして、宗教色は脱色したものの、高さへの憧れはあちらこちらで見られる。サンジミアーノしかり、ニューヨークしかり、現在のドバイしかりである。いわゆる「世界一」という至福へのあくなき探求(欲望)は連綿と続いている。もはや人類は宇宙にまでに飛んでしまっているというのに地上何メートルにこだわっているのである・・・。

しかし、断言するが、何処まで高く昇ろうともユートピアはないのである。そうした合理的な数値で測られるところにユートピアを求めなくとも、目くるめくような世界探しに明け暮れなくても、実は、人間の魂までも揺さぶるような至福の空間が「優れた建築」にはあるのである。何しろ空間は少なくとも3次元的には無限の表現の可能性を秘めているのだから・・・。
とすればユートピアはすぐ身近にあるのである。建築家の使命もそれを作り出すことにあるのである。少し神経を研ぎ澄ましてそうした見方で建築を観てもらいたい。もしかしてそれが見つけられたら、まさにそこがユートピアであろう・・・。