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傷菜

横穴や竪穴住居という始原的住処はともかく、18世紀フランスの建築理論家「ローゼェ」により命名された「原始の小屋」という建築(建物)が、西洋建築史上での初源的空間と言われる。そこから円柱が生まれ壁が付けられていったという論理である。その素朴な時代から何千年後かの今日、人類はバベルの塔ならぬ超高層建築、果ては宇宙ステーション建築の実現に至るまで、人類の「絆」と共に建築の「絆」をこぎつけた。人類のこの計り知れない英知、エネルギー、生命力には驚嘆するばかりである。その一方でこの有限な地球資源、環境を食いつぶし過ぎて、無限な開発への警告を自ら発するようになった。人類のこの功罪をどう評価するかは幾多の優秀な人類学者にまかせるが、これにはどうも、他の動物には無い人間独特の性癖、「欲」のDNAが起因しているようである。

本来、人類、人間が成長する、成熟していく過程においては、必ず捨てていかなければならないものがある、いわゆる「脱皮」である、なぜなら、一個の物体は全てを抱え続けては生きていけない、よしんば抱えたままいても、生命体の死とともに放り出さざるを得ないのである。ならばそれまでは抱え続けようという気にもなろうかも知れないが・・。
ともあれこれは各個人の生活、人生観というものに如実にあてはまる。一生の内に違う生き方は出来ない。いろいろな実体験のシュミレーションをした後に一つを選ぶことは出来ない。一発勝負なのである。だからこそ、皆出来るだけ「読み」を利かそうとする。慎重の上にも慎重に「利」を抱えようとする。翻るとそれが異常な保守主義(優勢種の保存主義)を産み、成熟の上に完熟、さらに潔癖を目指そうとするのである。この性癖がまずは生存の源である食物へ向かう。

たとえて言えば資本主義経済が定着した近来、農家で収穫される野菜類一つとっても、見た目はほとんど変わらないのだが、どこかちょっと傷でもあろうものなら、それは出荷できずに捨てられるという。そういえば小さい頃、父親ときには祖父につれられてよく「マツタケ」を取りに行ったのだが(その頃はまだ良く取れていたのか篭いっぱいになったと言って喜んでいた)、そのおりもちょっと欠けたものや、傘が開きすぎたものものは刎ねて仲買人(今思えば)に渡していた。残ったそれらは家で焼いて食べていたから非効率ではなかったが。まあこれらは「商品という市場価値観」優先社会でいえば当たり前かもしれないのだが・・・。また昨今の狂牛病問題をみても、念には念を入れる日本人は特に潔癖性のようである。

しかし一方で、最近は薬業界の規制緩和でゼネリックが普及してきたし、建築界での、最近流行のリフォーム産業などは、そういう、人間が抱える完璧、潔癖主義への反省というか、心のゆり戻し感が働き出したとも見て取れるのではないか。古くなって傷ついた古材を大事に使っていく、あるいは手を加えて古色を蘇らせる。傷ついた野菜「傷菜」と一緒で、見た目は悪くとも味がいいのである、「味」があるのである。ただし、これ見よがしのビフォー・アフター(テレビ番組)まで行くと本来の「匠」という日本古来の職人業、名人芸が安っぽい言葉に格下げされたようで悲しい現象ではある。